人間の小ささは昔から変わらないんだよね。

印刷機によって、書物の複製が容易くなった。
テレビや、映像媒体の向上で、共有できるのは文字だけではなくなった。
インターネットの登場で、物理的な制約を超えて、情報にたどり着けるようになった。
検索エンジンによって、それら情報の体系化が行われた。

では、僕たちは、これらのものがなかったころの人よりも、たくさんのことを“知っている”んだろうか。

ちょっと考えてみた。


ベトナム戦争


ベトナム戦争」でググってみる。

すると、ウィキペディアの記事や、そっち方面が好きな人の解説ページが出てきて、それらを読めば、いろんな知識が手に入る。1960年から1975年まで行われたこと、枯葉剤なんてものが散布されたこと、ダイオキシンが含まれていたこと、米ソの代理戦争だったこと、100万人近くが亡くなったこと、日本にも多大な影響を与えたこと。

そんな事々。

そのあとYouTubeに行けば、「地獄の黙示録」「プラトーン」なんかの映画も見れる。どっかのテレビ局の作ったドキュメンタリーもアップされてるかも知れない。

観る。手に汗握る、大迫力。


なんて素晴らしい。自宅のPCの前に座って、いくつか操作を施すだけでベトナム戦争が何たるかを、知ることができるのだから。


・細部の欠如


ちょっと待ってほしい。ベトナム戦争って、ベトナム戦争を“知る”ことって、そんなものじゃないはずだ。

文章や映像というのは、「ベトナム戦争」というひとつの事象の千切りのうちのほんの一部にすぎないわけで、それらを集積・集計しても、決して「ベトナム戦争」にはならない。なり得ない。

そこでは、硝煙のにおいや、血のぬめぬめした感触、迫りくる死の音、流れていた川、土の色など、その場に居合わせたものにしかわからない、「リアル」が欠如してしまっている。「リアル」は、細部とかオーラとか印象とか、そんなのと言い換えてもいい。


「すべて」を「知る」には、天文学でも扱わないほど大きなスケールの情報量が必要になってくる。対して、人間のサイズや寿命は今も昔も変わらない。

「すべて」を「知る」ことは、できない。


・「何でも知っている」という思い込み


それなのに、僕たちは、時として「何でも知っている」「知ろうと思えばいつでも知りえる」と思い込んでしまう。インターネットによって、世界中の情報にアクセスできるようになる日が来ると信じている。

違う。ぜんぜん違う。

情報技術が進歩したって、そこからこぼれるものはある。ビットでは捉えきれないものがある。

その捉えられない何か、「リアル」に神様は宿っている*1のに。

生活は、「リアル」から成り立っているのに。


そのことを僕らは、自覚すらしていない。




天空の城ラピュタ」で、ヒロインのシータは、次のような言葉を残している。

今はラピュタがなぜ亡びたのか

わたしよくわかる

ゴンドアの谷の歌にあるもの

土に根をおろし 風とともに生きよう

種とともに冬をこえ鳥とともに春を歌おう

どんなに恐ろしい武器を持っても

沢山のかわいそうなロボットを操っても

人は土から離れては生きられないのよ!


どんなにネットが発達したって、人は「リアル」から離れては生きられない。


そんなことを思った。



関連作品:
天空の城ラピュタ

天空の城ラピュタ [DVD]

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バカの壁

バカの壁 (新潮新書)

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現代人は「無意識」を無視するようになってきている、と養老さんは言っているけど、それと「リアル」の切り落としには、何か関係がある気がする。

*1:「神は細部に宿る」